2016.12.31
 
今年もお世話になりました。

昨年から1年のまとめは大晦日にすることになりました。
来年もよろしくお願いします。
 
 以下はhttp://blog.pahko.jp/ 2016抜粋です。


1月 精神保健福祉士国家試験
65歳まで現役(担任までやって)で働いて、規定により定年退職して非常勤週3日のゾンビ指導員になった。 同時に2年間の通信教育を申し込んだ。 経費は60万ほどかかったが,10万ほどは再教育補助金が出た。毎月のレポートと休み中のスクーリング、精神病院と作業所の実習、それらをなんとかクリアーしたが、この国家試験に通らなければすべて無駄になる。当日の自己採点では、合格かどうかぎりぎりの所だった。2ヶ月後の発表では98点/163点(満点)で合格だった。合格基準点は86点なので、それほどぎりぎりではなかったことになる。それ以降9ヵ月、今のところ資格をとっただけで、なんの効力もない。これも想定内なので文句はない。
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1月23日


2月 学習指導員出勤簿
中学生の補習指導を3ヶ月ほどやった。科目は数学。相手の人数は多くて8人程度、週1回2時間程度。この話はある検定試験の採点のアルバイトをしていたところから依頼が来た。私がこれを受けることにしたのは、場所が都立大学のそばだったからだ。よくある劇のようにオープニングとエンディングに同じ場所が現れる。人生をドラマのように過ごしてみたかった。50年程経っているから、大学は南大沢に移って校名も首都大学東京に変わっている。駅名だけが昔のままだった。若いときに過ごしたところを見ておきたい、そんな感傷的な気分で引き受けたが、線路と道路の位置関係が変わっていないだけで、私の感傷を充たしてくれるところはほとんどなかった。中学生相手の仕事は面白かったが、通勤に時間がかかるので、慰留されたがお断りした。
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1月14日


3月 杉並区NPO事業支援懇親会
NPOの仕事を手伝う事になった。始めは何が何だかわからなかった。法律を調べ経理事務を引き受けた。行政から補助金を引き出そうと、役所が企画するNPOの交流会にも出てみた。半年ほどするとだんだん事情が分かってきた。非営利活動は私の様な貧乏庶民には大元のところで合わない活動だと分かった。所詮は充たされた人たちの活動である。3年はつきあうつもりでいる。
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11月27日


4月 送り業務
週3日の非常勤勤務は私学の学童保育である。子どもたちは私をゾンビー!と呼ぶ。これはなかなか気に入っている。親が入れ知恵をして先生と呼びなさいと教える。するとゾンビ先生と呼ぶ。これがまた私のいたく気に入っているところだ。オマエゾンビになりたいのか。なりたい、なりたいー。よーしいい子だ。やったー。という会話を飽きもせず繰り返している。
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5月10日


5月 聖地ー新宿山吹高校地下小体育館
25年前に赴任した勤務校。その演劇部顧問が私の教員生活のハイライトである。この地下小体育館で朝から夜9時を過ぎるまで大会参加のために集まって練習そっちのけでたむろしていた。いやもちろん練習もしました。ここを離れて10年経って、再度聖地を訪れる機会が与えられた。大道具小道具を入れるボックスは当然なかった。音楽部関係のPA装置などが片隅におかれていた。だが聖地はほとんど変わっていなかった。消灯して再度灯りをつければ当時のままに活動していてもまったくおかしくない感じがした。
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5月2日


6月 行政書士国家試験通信教育教材
NPOの事務処理、役所への申請書類、税金の計算は税理士さんにやってもらっている。年度末年度初めに一連の書類を提出する。都庁の担当窓口、法務局の申請窓口に自分で行ってみた。これらは法律専門職が代行業務で行うものである。代行で金を取るには資格が必要だが、自分の申請は当然自分で出来ることになっている。税理士さんには年17万ほど支払う。これを自分で出来るのではないか。法律職では、行政書士が一番下の資格である。ならばやってみるか、と通信教育を申し込んだ。8万円ほどかかった。国家試験は年1回、民法は1044条、憲法は100条あまり。いままで敬遠してきたジャンルなので、知識体系の土地勘がまるでない。精神保健福祉士に引き続き半年間受験生をすることになった。「私の浪人時代3、4」が一気に攻めてきた。
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11月13日


7月 地域ファシリテーター養成講座
資格を取ったので、地元の福祉事情を知ろうと、社会福祉協議会とルーテル学院大学がやっているファシリテーター養成講座に申し込んで許可された。月に一度と夏休みには集中的に現地調査がある。講師は大学の先生、受講生は地元三鷹武蔵野小金井の希望者、参加者のほとんどは定年世代である。グループワークが多い。地元有志の方々と面識は出来たが、ここも自分がいるところではない感じがしている。福祉をするのは動機が弱く、ボランティアとしては知識資格がありすぎて、プロとしては経験不足で金を取るのを潔しとしない。結局いままでやってきた教員稼業の延長で不登校支援というのを分担することになった。
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10月13日


8月 職場整理
ゾンビ指導員の職場はかって教員をしていた中学・高校と同じ敷地内にある。そこに退職時の荷物を運び込んだ。それから2年半、いよいよその整理をすることになった。まだまだつかえる物が沢山あるが、現役でない以上無用のがらくたである。現役の先生に使ってもらう、という方法もあるが、これが先方にとって迷惑である。3年すればいい教材はいくらでも出来ている。使ってくれ、と申し出ても相手が断りにくいだけだ。しばらく広げて、感傷にふけっていた。「もったいない」の気持ちと共に、ばっさりやった。
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8月16日


9月 逸品ゾンビ丼
筆者A氏文藝事務所の主宰A氏とは50年近い付き合いとなる。年に3回ほど訪問して、クラシックからAKB48欅坂46の王道アイドル、半澤直樹などのドラマまで、最近のネット事情も絡めて教えてもらっている。最近は新宿で待ち合わせて有名ラーメンからカラオケという流れになった。A氏はマイクを使わずにカンツオーネを朗々と歌い上げるのである。写真はA氏自作のゾンビ丼(私がゾンビ指導員と呼ばれていることを全く知らない氏がそう言うのに驚いた)である。内実はレバー丼。
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9月11日


10月 銀閣寺
私、もう長くないかも知れない。私が先に死ぬから。一人で残されるのは嫌だ。妻と知り合った小笠原に赴任した船の中で当時流行っていた歌を聞いた。「俺より早く逝ってはいけない/何もいらない俺の手を握り/涙のしずくふたつ以上こぼせ」妻はこの歌大嫌い、と言う。多分、男の身勝手な感傷に付き合わされるのが嫌なのだ。見上げたものだ。しかし鬱のデフレスパイラルに入りこんでいくのもやっかいだ。日程を調整して京都に行くことにした。出たとこ勝負で勝手に歩き回るだけの旅行だ。昨年行った南禅寺で同じ湯葉定食を食べ、その場のノリで金閣・銀閣巡りをした。天気が良くて良かった、との感想である。紅葉は見られなかったが、とりあえず当面の危機は去ったようだ。
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10月16日


11月 四ッ谷の夕暮れ
聖地アキハバラに勤務先があった採点業務は経営合理化で外注されることになった。採点ばかりを請け負う専門業者を紹介された。これは自宅でするweb採点である。応募するかどうか少し考えたが、数学と離れたくないので申し込んで採用された。以前より業務内容は厳しくなった。自宅ではパソコン開いて懐メロを流しながら作業する。これはこれで楽しい。大した収入にはならないが晩年の時間つぶしとしては最高である。一回の採点に一度、四ッ谷の事務所で採点基準を確認する。この外出もなかなか楽しい。夕暮れの四ッ谷交差点を退勤時の勤め人がわらわら歩いて行く。それをコーヒーショップの2階から眺めるのが都会生活の醍醐味である。
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1 1月24日


12月 井の頭公園西園
2歳を前にして、アチュー太郎はipadの使い手である。ホームボタンは勿論、自分のみたいものをどうすれば見られるか習得した。青・赤・黄色と3色は見分け、ケイタイとはっきり発音し、ゴミが落ちている、鍵はちゃんと2つ閉めろ、と指さしの指摘がきびしい。お気に入りは物の出し入れでママのハンドバッグを開けて中身を取り出し、それをまた入れる。母子手帳が大好きである。じじバカとしては、この母親が幼児の時はこうじゃなかった、もっとぼーとして楽だった、この孫はただ者ではない、ということになった。