2019年10月14日(月)
昼の虫 [日記]
今日の一句
昼の虫月を仰いで勤勉に 浮浪雀
BSでクループサウンズ特集をすると番組表に出ていたので
早速予約して見ると、これが期待はずれの大物演歌歌手登場の懐メロ番組だった。
布施明が総合司会で鈴木杏樹がそのサポート。五木ひろしに石川さゆり、その他もろもろ。
五木ひろしはデビュー当時グループサウンズが全盛期でポリドールレコードの番組でタイガースのあとに出ると客が皆引いて、たいへんアウェーなところで歌うのは辛かった、と言っていた。その五木ひろしがタイガーズの歌を歌うのである。
ところでグループサウンズの歌の歌詞は、主語目的語が明確でなく、単語の雰囲気だけで押していく歌詞が多かった。そのなかで情景描写に矛盾がないのは、私の持ち歌の想い出の渚ぐらいだった。残念、youtubeで当時のビデオを見たほうがまだ気が利いている。
数学問題を解く。答え合わせをしてみると、自分でもなんで間違えたかわからない数値が書いてあってびっくりする。あたまで考えていることとは別のことを手が勝手に書いているとしか思えない。
さて今日は40年前の同窓会シリーズだ。40年前に私が初めて教員になった年に、1年間同じ宿舎で暮した先生の「囲む会」である。「偲ぶ会」としていないところに娘さんである次女のこだわりを見たように思う。この英語の先生とは40年前に1年間同居して、、その後2年同じ職場で同僚として仕事をした。3年間だけの同僚だが(先生のほうが私より12歳年上であったことがわかった)いまだに忘れがたく、というよりその時のままの心持ちがしている(のは私だけか)。
今日の会でわかったことだが、昭和12年生れのこの先生のキャリアは少し私と似ている。先生は若くして父親をなくしている。高校は商業高校である。(私は工業高校)高校を卒業して2年ばかり病気療養をしている。(私は3浪)その後入学したのが外語大のポルトガル語学科。(私は都立大の生物学科)そこを出て夜間定時制に12年間努めたあとに小笠原高校に赴任した。同じく私が小笠原高校に新任で採用された。そして同じ宿舎、奥村職員住宅6号室で1年間同居することになったのである。
私とこの自称ご隠居の先生は3年間小笠原高校にいて、私はこのあと12年間夜間定時制に勤務し、ご隠居は小平に家を購入して昼間の普通科高校に転勤したのだ。この3年間の小笠原関係の人が5人来ていた。みなそれぞれ当時より少し上品になったような気がする。つまりはうまく年をとっているのだ。私は相変わらずなんだが、困ったものである。
故人はこの8月まで元気に暮らしていたが、結核で入院、大したことがないと思っていたら2週間ほどで亡くなった。訃報のはがきには故人の希望で近親者のみで葬儀を行った、とだけ書いてあってごくあっさりしたものだった。私は、秋風の身にしむ頃や宮之浜 という俳句を次女に送った。この宮之浜というのは小笠原父島の海岸で、兄島瀬戸を望む寂しいところである。故人の名前を読み込んだ掛詞である。
私の頭の中の次女は小学3,4年生でなんだか癖のある変わり者の女の子だった。お姉さんは優等生タイプのいい子だったので、並んでいるとその違いは歴然としていた。ところが40年経ってみると女子アナのような才媛美女に変身していた。そのそも次女が父親の葬儀偲ぶ会をしきるというのは、ただごとではない。
どうも事情があるらしいが、こちらから聞くことはできない。この「囲む会」に集まったのは50人ぐらい。小笠原に来る前の職場同僚。小笠原から帰ってきたあとの教え子さんたち。故人が若いときからやっていた読書会のメンバー。かってのベ平連の仲間。地元の碁会所関係。歌謡曲と称したカラオケサークル。マンションの自治会のメンバー。といったところで晩年の地域の趣味サークルの知人たちであった。
でまあ、それぞれのグループから故人についての話があり、故人のことがいろいろ判明してきた。ご隠居は定年退職時に離婚したというのだ。退職金でマンションを購入、それまでに住んでいた家を奥さんに渡して、自由気ままに暮したいということらしい。
外国人と結婚した長女はイタリアに住んでいるので、この会にはこられない。父親の面倒はすべてこの次女がみていたらしいのだ。
やはりインテリの家では小説のようなことがごく当たり前に起こっているのだった。
13時から15時30分迄やって時間通りお開き。私は40年ぶりの同僚と立川までたらたら歩いた。
Posted at 21時11分 トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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