2015年01月12日(月)
成人の日 [日記]
今日の一句
絢爛の花園今日は成人の日 浮浪雀
今日は成人の日
私が2年前に最後に副担任をした学年が新成人となる。
この学校では、この日に学校に集まって同窓会?をやるのが習わしである。
この学年は女子校最後の学年なので、来年はこの伝統がどうなるかわからない。
2時間ほど晴れ着で立ち話をして、今回は最後に講堂の舞台で歌った。
高校時代の合唱コンクールの歌やクリスマスのハレルヤコーラス、そして、校歌。
伴奏はもちろん暗譜でつけて、練習も何もしないで3部合唱までやった。
なかなかすごい。
振袖で舞台に並ぶとAKBの新春特番みたいだった。
当時の担任を含めて教員が6人、保護者の方々や兄弟姉妹もきました。
私が気にしていた一人だけこなかった。どうしているだろうか。
「行けたら行く」とその人は言っていたという。残念だった。
私なりに少し準備しようと現役時代の写真をいくつかipadに入れて持って行った。
それなりになぞって懐かしい、とか言ってくれたのでよかった。
ご成人おめでとうございます。
私からは話しかけなかったが、2人ばかり進路の報告をしてくれた。
私は進路担当なので、それぞれ進路が決まるまでにお話を聞かせてもらった。
担任が優秀な人なので、この学年ではほとんど進路上で私の苦労はなかった。
それでもいろいろエピソードはある。
これは伝説となるだろう、ということもあった。
一人一人いまどうしているか気にはなったが
晴れやかな表情で談笑しているを見ているだけで十分だった。
45年前私は20歳だった。
私は3浪目でもう後がない、と思っていた。
当時の日記と大学受験ラジオ講座のテキストが出てきたので読み返した。
この日記はNO8とあるように8冊目である。18歳で高校を卒業してから、27歳で就職が決まって僻地の高校教員として赴任するまでが、私の黒歴史である。この時期のことを忘れることはできない。浪人時代の日記はその後何度も読み返し、書き込みをしたり、タイトルをつけたりした。その当時も今も恥ずかしい限りである。この日記のタイトルは
<ああ
ほんとうに
出口なんて
あるのだろうか>
というものである。
1969.12.4から1970.3.19までのものである。
浪人1年目は工業高校の実習助手として働き、2年目は予備校に通い、3年目はビル掃除のアルバイトをしながら、毎日毎日暗い気持ちで過ごしていた。3年目の成人式の頃はそのバイトもやめて最後の受験準備をしていた。成人式の日1970.1.15は代々木ゼミナールの模擬試験の日だった。
午後の休み時間に廊下にあったウォータークーラーで水を飲んだ。顔を上げてこの日のことは絶対忘れない、と思った。それを45年後に思い出した。日記の記録には代々木で模試としか書かれていない。
この雑誌の中を見るといろいろ興味深い。巻末の予備校の宣伝では、代々木ゼミナールは本部校舎と原宿校舎の2つしかない。スローガンは「親身の指導が生んだ最高の合格率」である。河合塾も千種校と名駅校の2つだけで、名古屋大学合格実績第一位と書いてある。その他にも私が世話になった、Z会(月明下の猛ノック)通添オリオン(青ペンと赤ペンの応酬で君の実力を鍛える!)英協の添削、など通信教育の宣伝もある。中を開けてみれば、カリキュラムの違いはあるが、数学の問題などほとんど変わらない。雑誌の値段は230円である。ハガキは当時7円だった。忘れる覚えるが口癖の勝浦捨造(前東北大学助教授)寺田文行(早大教授)とかラジオ講座の講師の名前もある。今になって言えることが二つある。3浪して大学にやっと合格した時に、若い時の3年なんてどうってことはないよ、と言われた。私もその時はそう思った。しかしそれは違っていた。若いときの3年はその時で大切なのだ。それはあとから変えることができない。だからその時やるべきことをやっておくことが大切なのだ。そしてそれ以外の人生はない。それは若いときだからではない。生活というものはその時やれることをやっておくしかない。そのことに尽きる。もう一つ、今日のように晴れ着をきた20歳の女性に「先生」と言われて、進路の報告を受けるなどということは45年前はまったく考えられなかった。これもまた一方の事実である。この相容れない局面をどう統合したらいいのか、このままほっておけばいいのか、なんとも釈然としない。
Posted at 19時30分 トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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