2010年08月05日(木)
広島 [日記]
今日の一句
広島や自身の人生軽きこと されど 浮浪雀
研修3日目は私が存じ上げている方お二人の
受賞記念講演である。
もちろんお二人とも私のことはご存知である.
始めの方はご自身の人生を振り返り
障害児教育(今は特別支援教育というらしい)一筋の
生き方を総まとめする内容だった.
プレゼンは用意したメモ原稿をとつとつと読み上げるだけという
温厚な紳士そのままの形式だった。
高校時代にこの道に入るきっかけとなった読書について語り
様々な苦難を乗り越えて定年後の現在あるのは
いままで関わりのあった人たちのおかげである、
とりわけ障害児の方々のおかげである、と感謝の言葉で締めくくった。
私が衝撃を受けたのは、その経歴の始めから
障害児と関わるのが楽しくてしょうがない、と話したときだ。
ためにする話はとてもできない不器用な方なので
それは本心そのものであると思われた。
私にもそれに似た経験はあるが、
とても楽しいことばかりではなかった。
その話を聞きながら私は自分の人生を振り返りざるを得なかった。
経歴を考えれば私の方がまだ恵まれたキャリアを歩いて来たように思われる.
それが人生の最終章に来て、充足の度合いがまるで違う。
そもそも人生に「もし」がないのと同じように
他人の人生と比較するほど無意味なことはない。
私が聴衆を前に話すとすれば、どんなことになるだろうか、
と考えて、とても語る事ができない、と思い至った。
語る事がないのではない、
自分の人生を語る、ということが
なんだか理解できない.
結局、私は自分をもてあましているのだった。
そのことを再確認しながら
その方の話を聞いていた.
もう一人の方は私の勝手な思いでは
この分野のジャンヌダルク
自身が望まずして闘わざるを得ない立場に置かれた
風の谷のナウシカである。
プレゼンは愛用のairmacを駆使して
文字情報のkeynote(windowsならpowerpoint)
を用意されていたが、
話はそれとは違う、その場で思いつきの事例だった。
その語り口と内容は圧倒的で
この分野の女性たちが
ある種の強烈なカリスマ性を感じるのは致し方ないだろう、
とおもわせるものだった。
この方は公立の国語教師を25年ほど続けたあと
現在は大学の教授となっている。
私に嫉妬心が生じなかったといえばウソになる。
しかし1時間ほどの話を聞いた後
またしても私は自分の人生と他人のそれを比べるのは
愚かな事だ、との結論に達した。
つまるところ
人は人、自分は自分なのだ。
話が終わったあと、私はあいさつをせずに会場を後にした。
メールで感想を送ることを考えていた。
「私にとっての課題は目の前に違和感の解決でした」
と語り始めた時、私はそれならわかる、と思った。
しかし、この今も私はまだ目の前の違和感を再確認していた。
壇上のその方にとって若いときのその課題は
一応の解決を見たように思われた.
お二人の受賞記念公演をきいて
社交辞令だけでなく
まずはおめでたい、と思ったが
同時に
自分はどうなのだ、と自問せざるを得なかった。
そういう状態で、とてもあいさつなどできはしない。
この自分の課題を再確認するために
6年ぶりにこの会に出たのだと思った。
Posted at 01時18分
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