2021年05月19日(水)
葵まつり [日記]
今日の一句
ただ歩く葵まつりの京都かな 浮浪雀
5時ころ起きる。
昨日は10時半に寝たら、2時半に起きたので、しばらく眠る努力をして
なんとか4時半ころまで寝床にいたがついに眠ること能わず、
起きてTVを付けた。
best hit USAを見る。お笑いの有田さんがでていた。
小林克也節を堪能して、正法眼蔵を見る。
この読み方がわからなくて長い間頭の中で(せいほうがんぞう)と読んでいた。
正しくは(しょうぼうがんぞう)と読むらしい。
独学で困るのは時の読み方がわからないことだ。
数学などでもそうである。記号の読み方もよくわからない。
最近はネットの発展で気軽に触れられるのがよい。
100分de名著、もネットで見られる。
禅の経典である道元の書いたこの本は仏教書というよりは哲学書である。
認識論なので、反語が多い。認識論の眼目は認識主体がなにか、という問題である。
悟りか迷いか、涅槃か生死か、詰まるところをそれを認識しているはなにか、という問題である。メタ認識を議論しているので、難解な書物と言うことになっている。
崖っぷちの木の枝を咥えてぶら下がっている坊主がいる。
その坊主に向かってある人が達磨大師がインドから中国にやってきたのはなぜかと問う。この質問は仏教の中での最高の疑問でいわば仏教の存在理由を問うている。これに答えなければ僧としての存在理由はない。しかし答えようと口を開ければたちまち崖下に無限落下して命を失う。さあ、どうするか。
いかにもの禅問答。
涅槃に生きたいと思い生き死にの世で修行をしても涅槃にはいけない。生き死にのなかで煩悩にのたうち回っていることすなわち涅槃である。それこそが涅槃だと悟りを開いているのがすなわち生き死にの俗世である。俗世にあって涅槃を忘れず、涅槃にあって俗世を思うすなわち迷いこそが悟りなのだ。
今日はon line 授業
ようやっとルーティンができつつある。
レポート課題に相当する教科書ページの紹介、というのが内容である。
そのためにzoomではサブカメラにiphoneを使って机の上を写す。
この机の上に印刷物、教科書、ipad、白紙で鉛筆記入、の媒体をとっかえひっかえアナログで出し入れして授業をする。なによりも重視するのはライブ感で、今ここで話しているということが第一である。
そのために該当教科書のところを音読して発音できるか調べておく。教科書の第当箇所をまとめて箇条書きにする。あるいは図を書いておく。このノートをみないで講義中は白い紙に鉛筆で板書をするみたいにメモを取る。これをそのまま移す。間違えたらそこで消しゴムで直す。
ipadにはメディア教材のNHK学園高校の番組をみてスナップショットで場面の写真を取って、必要な時見せる。ピンチすれば拡大できる。(まだ写真の上に書き込みができない。アプリを使えばできるはずだが、準備時間がかかると結局講義に間に合わないし、準備していいものを作りとライブ感が損なわれる。)
まあ、そんな感じでアナログ手書きで大声を出して例によって適当なギャグをからめて無観客公演のような授業になる。生徒とのやりとりは最初と最後の出席確認だけである。
大声を出すので脳内の血流が増しているがはっきりとわかり、終わっているとうつの気分はなくなっている。大声を出すのは健康に良い。ただ発声するのではなく、ちゃんと意味を考えながら声を出すと、より脳の血流が増す感じがする。
映画製作の打ち合わせ47m
Posted at 20時55分 トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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