2007年08月03日(金)
蟻
今日の一句
蟻のよな一生巣の中の幸せ 浮浪雀
40年前の浪人時代に考えていた第一志望の
数学教師になった私は
自分の考えが浅かった事に今更ながら気づいた。
教員として採用されて32年
そのうち29年を理科(主に生物)教員として過ごして来た。
私には自分ではっきりと納得していないことを
その場でなんとか取り繕って提供している、という思いが
消えなかった。
生物入試問題は解答できるが、
教科書の記載の背景にあるはずの膨大な知見には
とても追いつかない。
それでいつも不十分な情報しか提供できていない。
そう思って来た。
数学ならば論理的に明確であるから
あいまいなことを
いいかげんに教えているという意識から
逃れられる。
退職再就職して方針転換をするので
まずは自分をブラッシュアップするために
Z会なる通信添削に加入、
高校1年からの問題をやり直した。
以来2年間日曜日はほぼそれでつぶれた。
それでわかったことがある。
単純なミスと呼んでいい計算間違いが
必ず起こるのだった。
集中力が続かないのだ。
知らないうちに間違える。
指摘されればすぐわかる。
これはケアレスミスと言われているが(事実添削欄で指摘されている)
必ず起きればこれをケアレスと呼ぶのは適当でない。
注意しても防げない。
40年前も同じようにミスをおかしていたが、
その時は努力によってなくすことができるものだと
思っていた。
ただ自分に合う努力の方法がわからないだけだ。
しかし今やそう思うことはできない。
それが私の力なのだ。
羽根のない体がけっして飛べないように
目には見えぬが脳内のある種の欠損によって
確実に正解にいたることができないのだ。
これが思惑の違った一つである。
自分の力にかんする思い違いだ。
自分がわかればあとはなんとかなる、
そう思っていた。生物は自分でも納得がいくように
わからないから、もやもやするのだ。
さて数学を教えてみると
数学がわからない人の中には
数学のやり方がわからないのではない。
やり方そのものの意味が
まったくわからないらしいのだった。
そして教員の仕事はもちろん
教員がわかることではなく
生徒がわかることなのだった。
自分がわからないときは
そのことを意識しなかった。
生徒がわからないのは
私がよくわかっていないからだ。
私がわかれば生徒にとって
何がわからないか、はっきりするにちがいない。
その考えが間違っていた。
教えるという仕事に関する思い違いがあった。
40年にしてそのことに気づくとは
まったくうつけ者である。
それがあと一つの思い違いである。
さっそく研究会に入った。
数学を楽しくわかりやすく教えることを
研究する集まりである。
その会の全国大会に今年も参加した。
Posted at 23時36分
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