2018年12月25日(火)
降誕祭 [日記]
今日の一句
降誕祭ほどよき甘さ三浦屋のケーキ 浮浪雀
テラスハウス
軽井沢シリーズはこの年末で終わる。
台本はないが演出はある。
勉強になります。
歯医者、虫歯2本あるので治療する。
奥歯なのでなかなか難しい。
まあなんとかやってみましょう、と先生は言った。
所用1時間
今年の年末は今日くらいしか休みがない。
恒例の埼玉の実家相当に借金を返しに行く。
貸主の姉からは「もういいんじゃないの」と言われているが、
返せる金があるうちは返しておきたい。
この姉が施設に入るにも必要なのは金だ。
兄は例によって、自分の関心事だけ話しまくってさっと消えた。
相変わらず目の不自由な人を援助するボランティアをやっている。
その人の杖代わりに出歩いていると言うから偉いもんだ。
その会の会報の編集を頼まれているのも昨年と同じ。
兄の娘は母子家庭なので兄の家の隣に家を建てそこに娘と孫が移った。
「お父さんといるとけんかが絶えない」とのことである。
私はこの孫にお年玉をあげるのも訪問の目的である。
小学6年生男子。
長姉は相変わらず頭と口は達者だが
足が弱い。目も加齢黄斑変性で片目はほとんど見えない。
もう片方も最近は怪しいのでラジオを聞いている、とのことである。
早く母を亡くした私にとって18違いのこの姉が母代わりだった。
高校の保護者面談にはこの姉が行ったのだ。
来年は米寿になる。
もう一人の姉は骨が弱いそうだが、高校時代の友人と
正月3が日は秘湯に行くそうだ。結構なことである。
ということで、妻の家族が今年2人なくなり、
私は喪中ハガキを出したが、私の家族はまだ少し持ちそうである。
終活などといってこの世をおさらばする準備を少し前まで考えていたが
最近は、それはどうも違うのではないか、と考え始めている。
兄は「自分は差し歯なのだが、それを抜いて鏡を見ると
なんだが情けない。これが本当の自分なんだと思うと、あー、ってなる」
とのことだ。私もその感想にはいたく共感するが、あとが違う。
この姿は私のこの世の仮の姿、いわばアバターである。
私の本質、つまりは本当の自分はこのアバターを操縦している自分である。
そとの姿は変わっても一貫して自分を自分と認めている自分こそが本当の自分なのだ。
そんなわけで、終活などちゃんちゃらおかしい。と最近思い始めている。
今年は終活ならぬ就活を始め、いくつか新しい仕事をゲットした。
来年は電気工事士を取得し、小銭を稼ごうとしている。
電気工事士の件はこの前追悼忘年会で聞いた。
追討とはいえ、故人の写真を机に置いただけで、相変わらず自分に関心の話だけをしていた。
老いてますます盛んと言うのをやってみたい。
今年は私の知人友人が5、6人亡くなった。
そこで知り合いがなくなると、その人に会えなくなる。
会えないと、自分がどんな人間だかその人からの反応を確かめることができなくなる。
つまり知人の中にいる自分を確認できない。
それは自分が無くなることである。
それで知り合いが死ぬとがっかりするんだと思う。
日常的に接している人がなくなると
その分自分もいなくなる。
自分を知っている人間がいなくなれば、自分は何者かわからなくなる。
そういう事態が起こりそうだ。
それを避けるためにこのサイトに記録をとっているのだ。
自分が何者かわらなければこのサイトを見ればいいのだ。
10歳の時は小学校5年生だった。ラジオ工作と模型ヒコーキに夢中だった。
20歳の時は3浪の受験生。黒歴史のまっただ中である。
30歳の時は新婚の受験生にして定時制高校の教員。暇がなかった。
40歳の時は定時制高校の教員にして昼間は東大に通っていた。
50歳の時は単位制高校の教員でちょっとした事件があった。
60歳の時は女子高で3年持ったクラスの生徒を卒業させた。
70歳の時は学童保育のゾンビ指導員にして通信制高校の講師である。
これが私の一生であるが、じつはこれも仮の姿に過ぎない。
という夢を朝見たところだった。
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