2014年09月14日(日)
蚯蚓鳴く [日記]
今日の一句
蚯蚓鳴くドブ無き帝都の空き家群 浮浪雀
台所の床張り
最近ではホームセンターにスグレモノを売っていて
少し工夫すればプロの技と遜色のないものができる。
ほぼ予想通りの仕上がりとなった。
ここしばらくは休日この業務に専念する事になる。
世間は秋晴れの秋祭り
夕刻例会
今日の引用
”「教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、すくなくとも見掛け上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。(・・・) 無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っているのです。誰かが教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということは決してありません。」(ジャック・ラカン、「教えるものへの問い」、『フロイト理論と精神分析技法における自我(下)』、小出浩之訳、岩波書店、1998年、56頁)
人間は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っている。
これは「教える」ということについて語られたうちで、もっとも挑発的で、もっとも生産的な命題の一つだと私は思う。教えることを職業にしているすべての人間はこの命題にまっすぐに取り組んで、自分なりの解釈を下す義務があると私は思う。
私も長く、30年以上にわたって「教卓のこちら側」にいた。そして、私の経験はこのラカンの言葉に満腔の同意を与える。
「教卓のこちら側」にいる人間は、「教卓のこちら側にいる」という事実だけによって、すでに「教師」としての条件を満たしている。
教師は別にとりわけ有用な、実利的な知識や情報や技能を持っており、それを生徒や弟子に伝えることができるから教師であるわけではない。
これが教えることの逆説である。” ー内田樹「教育の奇跡」
ジャックラカンの言説としては、これは大変わかり易い。
私は公立学校の教員をしていた時、自分の給料の額についていつも疑問を持っていた。なぜこれだけの金をもらえるのかよくわからなかった。多い、少ない、ということではない。労働の対価として考えるとその根拠がわからなくなるのだった。職場に行って時間を凄してさえすれば、(何かマイナスの落ち度をしなければ)給料はちゃんと銀行口座に振り込まれるのだった。私の教師としての能力・技能(そんなものがあるとして)とは無関係なのだった。さらに思うように教師の仕事がうまく行かない時(それはおおむね生徒諸君への教科上、あるいは生活指導上の成果だった)、自分は教員をする資格があるのだろうか?と一人思い悩んだものだった。結論は単純だった。私は大学で教員免許状をもらい,採用試験にうかったのだから教員をしていてもよい、というものだった。つまりは社会制度によって私の収入は保証されているのだった。それは年金が主な収入となった現在も変らない。これまた制度によって私の収入は保証されているのだ。つまり社会が成立しているからこそ私の暮らしがなりたっているのだ。けっしてその逆でない。これは私の自尊心を大きく損なう結果となった。社会制度の中でその位置に着けば、それなりの収入が誰でももらえるのだ。身分が金になる、ということである。私はどうでもいいのである。これは厳粛な事実である。われ思う故にわれあり、と思っている私、私が消えれば世界は消える、と思ってる私、その私の存在を揺るがす厳粛な事実なのだ.そこで私はこうしたブログなど書いて憂さをはらしているというわけなのだ。
Posted at 00時11分 トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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