2021年01月01日(金)
御慶 [日記]
今日の一句
御慶日にマスク姿の自警団 浮浪雀
昨夜は久しぶりに村上春樹のラジオを聞こうと思っていた。
はじめの方でヒューイルース&ニュースの8分もするレア盤をかける、
というところを聞いて寝てしまった。
朝も普通に起きたが、お雑煮はお犬様の食事の後になる。
TVのチャンネルをあちこち回すとフジが芸人大集合でふわちゃんというのを始めてみた。要はテンション亥之助なのね。カンニング竹山がパンツ一つで震えていた。
雅楽の響きに晴れ着の女子アナというのが定番のはずが各局地味だった。医療関係者他に気を使ったのだと思う。
7時半になったのでお犬様しっこうんちごはんお膝抱っこぺろぺろちゅっちゅ。
TV見ながら時間を潰すが何を見たか忘れた。
年賀状
親戚 7
知人・友人 16
かっての生徒 14
営業PR 8
とりあえず中断
今回で年賀状をやめます、というものが1枚あった。
その気持もわからないではない。わたしもここ数年そう思っていたからだ。
しかし昨年、世間がそう来るなら反対のことをしてやろう、そう思った。
要するに面倒になってくるのだ。そのことが老いだということに気が付かない。
生きているうちは全力で生きる。死ぬときは全力で死ぬ。つまりはこういうことに尽きる。
もっとも年賀状をやめます、という方はそれで結構。私はこの人に向けて来年ご挨拶の年賀状を出してみようと思っている。思っているが、実は亡くなってしまう、ということも十分考えられる。中学時代の知人はすでに3人亡くなっている。高校時代の友人も3人。これらの知人はここ数年顔を合わせていた。年賀状をやめる、と書いてきた知人は年賀状だけの付き合いだった。
しかし思い起こしてみると27歳のとき小笠原に赴任する父島丸の出向をこの人は見送ってくれたのだ。そして3年後に帰ってきて1年かけて東大合格したときは、小林よしのりの東大一直線全巻をお祝いにくれた人なのだ。すでに40年前である。それ以降、この方との付き合いは年賀状以外殆どない。美術雑誌の編集長?のあと美術系の大学教授をされていた方である。年賀状には、仕事から撤退、都会住まいから撤退、飲み会から撤退(しぶしぶ)、とあり最後に勝手ながら年賀状から撤退、とあった。なかなかお見事である。お見事であるが、こちらはこちらの気持ちが残っている。そのことは伝えておこうと思っている。
さて例年のごとく、井の頭弁財天にお犬様の散歩がてら行ってみると、3が日は閉門していて入れない。仕方なく井の頭池の周りを少し散歩して帰ってきた。人通りは少なかったが参拝客は来ていた。
帰宅後軽く昼食。少し昼寝して次は三鷹八幡へ行ってみた。
昨年からの御札、破魔矢を返却しなくてはならない。
こちらは参拝だけはやっていた。破魔矢・御札も納めどころがあった。しかしそれ以外の業務はしていなかった。ガードマンの人が一人参拝客を警護していた。
列は参道の7割ほどまで並んでいた。その後につくと私の後ろで熱く語っている人がいる。
PCR検査はおかしい。日本やり方は間違っている。こんなふうに社会を混乱させているのは中国の陰謀だからだ。感染者数の発表も操作されている。なぜ皆わからないんだ。パパのような一般人にもわかるのに。
(後ろの二人連れは親子だとわかる。父親はいわゆる陰謀説の信者らしい)
この前鬼滅を見に行った。煉獄は命をかけて使命を全うした。しかしコロナ騒ぎでは、みな命が欲しくて怖がっているんだ、命はあるだけじゃしょうがない。なんのためにあるのか、煉獄さんをそれを示してくれたのだ。
(こどもはこれを聞いて黙ってしまった)
私が破魔矢と御札を納めに列を離れて戻ってくると二人は消えていた。
仮設の賽銭箱の前でお参りして帰ってきた。
4時を過ぎたので、お犬様の散歩はなしにして
別邸で、たけしくんハイ!のKINDLE版を読んだ。
子供時代のエピソード集だが、同じような経験をしているので私も昔のことを思い出した。たけしのこの作品は自虐的なネタ集のようなものだ。もう少し書き込んでみてもいいんじゃないか。多分口授筆記で編集者が口語文体でまとめたものと思われた。少年という作品があるので、そちらの方が自伝っぽいかもしれない。
あとがきに、金持ちは自信があって人間関係の切り方があざやかだが、貧乏人はそうはいかない、といったコメントがあった。なるほどそういうものかもしれない。
正月を契機につらつら思い起こしてみると、私の悩みは仕事上のことと家族を含めた人間関係のことが多く、それが悩みとして成立するためには我執の問題があると思った。つまり自分に関する執着である。自分の物事の捉え方と言ってもいいかもしれない。外から見て同じ様な経験をしていてもそれがまったく悩み事にならない人もいるのだ。結局は受け取り方の問題が大きい。
なぜか徒然草を思い出し、平家物語の冒頭を思い出す。諸行無常というやつだ。その諦念で日常生活を楽しくやっていけるか、というところが難しい。別に楽しくなくてもいいが、何にも期待しないでモチベーションが保てるのか、という問題だ。数学の問題などを解答しようというモチベーションはけっこう保てる。これは整合性への信仰というか、世界には秩序だった理由があるという確信がある、というか。その方面だけで済めば、まだまだやっていける気がする。
Posted at 19時07分 トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
トラックバック
トラックバックURL
http://blog.pahko.jp/tb.php?ID=6294